新型コロナウイルスの感染が、まだ世の中を覆い尽くしていた、あの頃。私は、祖父の葬儀に参列しました。それは、私にとって、誰もがマスクをしているのが当たり前、という異様な状況の中で行われた、初めての葬儀体験でした。斎場に入ると、そこにいた親戚たちは皆、黒い喪服に、白いマスクという、統一された姿でした。誰が誰だか、一瞬、見分けがつかないほどです。マスクで顔の半分が隠れているため、それぞれの表情から、悲しみの深さを読み取ることも、容易ではありませんでした。ただ、マスクの上から覗く、赤く腫れた目だけが、その人の感情を物語っていました。お焼香の列に並んでいる時、私は、ある種の息苦しさを感じていました。それは、マスクによる物理的な息苦しさだけではありませんでした。悲しみを共有し、慰め合うはずの場で、マスクという一枚の壁が、人と人との間に、見えない隔たりを作っているような、そんな精神的な息苦しさでした。お悔やみの言葉を交わす時も、声はくぐもり、相手の表情も分からないため、本当に自分の気持ちが伝わっているのか、不安になりました。しかし、そんな私の考えが、少しだけ変わった瞬間がありました。それは、告別式の後の出棺の時です。霊柩車に棺が納められ、扉が閉められようとする、その最後の瞬間。それまで、気丈に振る舞っていた叔母が、突然、わっと泣き崩れました。その時、隣にいた別の親戚が、何も言わずに、そっと叔母の肩を抱いたのです。二人の顔は、マスクで覆われていました。しかし、その触れ合った肩からは、どんな言葉よりも雄弁に、「辛いね」「分かるよ」という、温かい感情が伝わってくるようでした。私は、その光景を見て、気づいたのです。たとえ、マスクで表情が隠されていても、声が届きにくくても、人を思いやる心そのものを、隠すことはできないのだと。むしろ、そうした制約があるからこそ、私たちは、言葉以外の方法で、寄り添おうとするのかもしれない。葬儀の後、私は、祖父の遺影に向かって、マスクを外し、改めて、心の中で別れの言葉を告げました。あの異様な静けさと、マスク越しの涙。それは、私の心に、忘れられない弔いの風景として、深く刻み込まれています。
私がマスクで参列した初めての葬儀