父が病院のベッドで静かに息を引き取った時、私は、父の死という現実を、どこか遠い出来事のように感じていました。温もりこそ失われていましたが、その顔は、ただ眠っているだけのように見えたからです。しかし、その感覚が、幻想に過ぎなかったことを、私は翌日、思い知らされることになります。葬儀社の方に付き添われ、自宅の和室に安置された父。その枕元で、母と私が呆然と座っていると、担当者の方が「それでは、お父様のお体を、これから冷やさせていただきますね」と、静かに言いました。そして、発泡スチロールの箱から取り出したのは、白い煙をもうもうと上げる、ドライアイスの塊でした。担当者の方は、慣れた手つきで、その冷たい塊を布で包み、父の胸の上と、お腹の上に、そっと置きました。その瞬間、私は、父が本当に「亡くなった人」になってしまったのだと、強烈に実感したのです。生きている人間の体に、あのようなものを置くことは、決してありません。ドライアイスは、父が生の世界から、死の世界へと完全に移行したことを示す、残酷な境界線のように、私には見えました。しばらくして、父の頬にそっと触れてみると、その肌は、病院で触れた時とは比べ物にならないほど、芯から冷え切っていました。その人工的な、氷のような冷たさに、私は思わず手を引っ込めてしまいました。涙が、後から後から溢れてきました。悲しい、という感情よりも、もっと原始的な、恐怖に近い感覚だったかもしれません。しかし、その夜、父の棺のそばで一人、静かに過ごしているうちに、私の気持ちは少しずつ変化していきました。あの冷たいドライアイスがなければ、父の体は、もっと早く、私たちの知らない姿へと変わっていってしまう。この冷たさこそが、父の穏やかな寝顔を、私たち家族の記憶の中に留めておいてくれるための、最後の砦なのだと。そう思うと、昼間感じた恐怖心は薄れ、むしろ、父を守ってくれているその存在に、感謝の念さえ湧いてきたのです。葬儀のドライアイスは、ご遺体を科学的に保全するための、合理的な処置です。しかし、残された遺族にとっては、愛する人の死という、抗いようのない事実を、その絶対的な冷たさをもって突きつける、非常に象徴的な存在でもあるのだと、私は父の死を通して、身をもって知りました。
父の体に置かれたドライアイスの冷たさ